LOGIN第三幕 デビュー
高校に入って、まだ春の匂いが残っている頃。新しい制服にも、ようやく慣れ始めたばかりの時期。
グループとしてのデビューが決まったと聞かされたのは、いつもの帰り道だった。
「今日ね、話があって」
沙友里は、歩きながらそう言った。声は落ち着いているのに、指先だけが少し落ち着きなく動いている。
「……私たちのデビュー、決まった」
一瞬、僕は言葉が出なかった。胸の奥で、何かがほどける音がした気がする。
「おめでとう」
それだけ言うのに、少し時間がかかった。沙友里は、ほっとしたように笑う。
「ありがとう」
嬉しいはずなのに、その笑顔はどこか慎重だった。
「でもね」
そう続けた声が、少しだけ低くなる。
「事務所の人と話して……ルールがあるって」
僕は、何も言わずに聞いた。
「恋愛は禁止ってわけじゃないけど……誰と会うかとか、SNSとかに、気をつけてって」
沙友里は、言葉を選びながら説明してくれた。まるで、自分に言い聞かせているみたいだった。
「……だからさ」
沙友里は言葉に詰まる。
「私たちも、少し……気をつけないと、だよね」
その『私たち』が、さっきまでと違うものを指していることに、気づいてしまった。
歩きながら、沙友里がこちらを見る。
いつもの距離。いつものタイミング。沙友里の指先が、いつものように伸びかけて——止まった。
はっとしたように、彼女は手を引っ込める。
「ごめん」
沙友里は、笑って誤魔化すように言う。
「私が、言ったのに……」
「……大丈夫だよ」
僕は、余計な気持ちがこぼれないように、なるべく言葉少な目で話す。
「無理に繋がなくていいから」
そう言うと、沙友里は安心した顔をした。でも、その表情はどこか寂しそうでもあった。
会える時間は短くなった。人目を避けて、少しだけ。並んで歩いても、近づかない。
『レッスン終わった』
それだけのメッセージで、一日が終わることもあった。
髪型が整えられ、話し方が揃えられ、笑顔の角度まで変わっていく。
結城沙友里——それはもう、僕だけが呼ぶ名前じゃなくなっていた。
「どうかな?」
ステージ衣装を着た沙友里の画像を、恥ずかしそうに見せてくれた。
「……似合ってるよ」
もう、それ以上は言えなかった。
「ねえ」
ある日、沙友里が言った。
「直哉の前だけは……私でいたい」
その言葉が、胸に深く刺さる。
「僕は……ずっと変わらないよ」
そう答えると、沙友里は小さく笑った。でも、その笑顔は、前より少し遠い。
自分の部屋に戻ると、机の上には描きかけの原稿があった。ペンを握る。けど、手がわずかに震えた。
——もう戻れない。そう思ってしまった自分が、怖かった。
手は、もう繋がなくなった。でも、沙友里を失ったわけじゃない。
ただ、見えない線が引かれただけ。僕たちを壊してしまいそうな境界線。
僕たちは、その前で立ち止まっていた。
第六幕 また手を取り合って ライブ会場は、あの夜と同じ匂いがした。照明の熱、人の波、胸の奥まで響く低音。——結局、来てしまった。 最前列じゃない、目立たない席。それでも、ここからならちゃんと見える。 ステージに光が落ちる。歓声が上がり、一番前の列に沙友里が立っていた。 以前見た、あの夜と同じ構図。僕は客席で、沙友里はステージの上。 歌い出した瞬間、会場の空気が一気に持ち上がる。あの頃より、ずっと堂々としている。声も、表情も、動きも。——アイドルなんだ。 そう思ったら、目を離せなくなった。これが沙友里の目指した世界だった。 曲の途中、沙友里がふっと客席を見る。ライトが揺れる。視線が流れる。……今。&
第五幕 伸ばせなかった手 最初に見たのは、ニュースでも記事でもなかった。 SNSから流れてくる噂だった。写真はぼやけていて、夜の街で、二人並んで歩いているように見えた。 だが、僕は見間違えない——沙友里だった。 沙友里と、知らない男。「○○と一緒だったらしい」「仲良さそうだった」「距離、近くない?」 確かなことは、何ひとつ書いていない。でも沙友里は、今をときめくアイドルグループのフロントメンバー。拡散するには十分だった。 僕は、スマホの画面を閉じた。
第四幕 距離のかたち 春が終わり、夏が来て、気づけば季節がひとつ進んでいた。高校一年の終わりが近づく頃には、沙友里の生活は、完全にアイドルのそれになっていた。 レッスン、収録、イベント。 予定は前日に送られてきて、変更は当日の朝に知らされる。『今日は帰れないかも』『ごめん、明日も朝早い』 それだけで、一週間が過ぎていく。僕は慣れたふりをしていた。待つことにも、短い返事にも。 会える日は月に数えるほど。しかも、人目を避けてほんの短時間。「……久しぶり」 そう言って笑う沙友里は、前より少しだけ遠慮がちだった。話したいことはたくさんあるのに、時間がそれを許してくれない。「大丈夫?」
第三幕 デビュー 高校に入って、まだ春の匂いが残っている頃。新しい制服にも、ようやく慣れ始めたばかりの時期。 グループとしてのデビューが決まったと聞かされたのは、いつもの帰り道だった。「今日ね、話があって」 沙友里は、歩きながらそう言った。声は落ち着いているのに、指先だけが少し落ち着きなく動いている。「……私たちのデビュー、決まった」 一瞬、僕は言葉が出なかった。胸の奥で、何かがほどける音がした気がする。「おめでとう」 それだけ言うのに、少し時間がかかった。沙友里は、ほっとしたように笑う。「ありがとう」 嬉しいはずなのに、その笑顔はどこか慎重だった。「でもね」
第二幕 レッスンの日々 それからの日々は、立ち止まる暇もなく流れていった。 沙友里は本格的なレッスンが始まり、徐々に忙しくなっていく。レッスンがある日は、スタジオまでの送迎だけになった。それ以上は、何もできなかったし、しなかった。 建物の前で立ち止まる。ガラス張りの入口の向こうから、僅かに音楽が漏れてくる。低いカウントと、床を踏む音。知らない大人の、鋭い声。「行ってくるね」 沙友里はそう言って、振り返る。笑顔を作ろうとしているが、なっていない。「うん」 それだけ返して、一歩下がる。ここから先は、僕の場所じゃない。 最初の頃は、帰りが遅かった。みんなが出てきても沙友里だけ出てこない。やっと出てきたと思ったら、 顔色が悪くて声も小さい。「どうだった?」 そう聞くと、沙友里は決まって曖昧に笑う。
第一幕 繋いだ手 僕たちが中学三年だったあの頃、放課後はいつも騒がしかった。 通っていたのは、大和中学校。そこで僕が所属していたのは漫画研究部——通称漫研。沙友里はダンス部だ。部活帰りの声、下駄箱の音、夕方に近づく校舎の匂い。でもその日、僕たちだけが違っていたのかもしれない。「直哉」 呼ばれて振り返ると沙友里がいた。制服の袖を少しだけ引っ張って、言いにくそうに視線を落としている。「……一緒に帰ろ?」 断る理由なんて、最初からなかった。並んで歩く帰り道。何だかいつもより歩幅が合わない。明らかに様子が違っている。 沙友里は何か言いたそうで……でも、言わない時間が続く。沈黙に耐えきれなくなったのは、僕のほうだった。「どうしたの?」 沙友里は一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく息を吸った。







